主題: 神の家族の書: 「詩篇に生きる」
核となるみことば: 詩篇119:32
私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。
J I. パッカーは詩篇に興味を持つまで約20年の歳月を要したと述懐しています。というのも、クリスチャン人生を始めた頃は、正しい概念、教理を理解しようということばかりに関心が向いていました。そして詩篇は概念や教理を分析する書ではないのです。作者の赤裸々な思いを率直に記しています。119篇は整っている詩篇と言えますが、それでも「113 私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。115 悪を行う者どもよ。私から離れて行け。私は、わが神の仰せを守る。」「158 私は裏切る者どもを見て、彼らを忌みきらいました。彼らがあなたのみことばを守らないからです。」と率直です。さらに「6:6 私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」「139:22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。」と激しい感情を記しています。「13:2 いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。」「116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。」と、直面する問題に自分の全存在を欠けています。
そして詩篇の話題はあちらこちらへと飛んでいます。静かに思いを巡らせているかと思えば、深い心の動きをそのまま言葉にしています。説明のための議論、論理形式(例えばパウロ書簡)にはなっていません。礼拝に説明的な議論は必要ないからです。しかし、だからこそ聖書のこの書、詩篇には関心が持てなかったのです。
もう一つ、詩篇から遠ざけていた要因は、詩篇が単純であると同時に、あまりにも桁外れのものだからです。クリスチャンの社会であろうと、異教の社会であろうと、神のみ前で詩篇のように自分の感情や欲望をそのまま表現することはよしとされません。人によっては、あまりにも自分に偽りなく恐ろしいまでに表現している詩篇作者が野蛮にさえ思え、そんな人たちと自分を重ねたくないと考えます。しかし、これは事の程度の差はあれ、多くのクリスチャンが家族、神の家族、地域社会、また職場の人間関係の中で直面する問題、課題でもあり、心の葛藤そのものなのです。
信仰生活が長くなるにつれ、だんだんに詩篇の作者の気持ちを理解できるようになり、そして感謝なことに、詩篇の作者のようであるべきだと、主権者である神の前に真摯に立つことであると確信するようになっていくのではないでしょうか。詩篇に生きることで、度量の狭い者も広くされます。そして私たちもそうなれるよう、熱心に求める必要があるのではないでしょうか。何よりも、そうであればこそ父なる神が備えて下さった全き恵みに目を向けることです。イエス・キリストにおいてなして下さった神の全き愛に焦点を当てます。