詩篇16:11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
詩篇16篇を読み、クリスチャン人生で取り組むべき課題を確認しました。自分に関心を持ちすぎても、関心が薄すぎても益にならないみたいです。聖書の意図に通じるクリスチャン生活の実現が願いです。 詩篇16:11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。 「井戸端会議」ならぬ「いこいの汀会議」を池の水のほとりで行いました。テーマは『10月の芋煮会』山形風か宮城風か。それにしても、「汀」(みぎわ)という漢字は日本人でも読みにくい上に、意味を自分たちでもはっきり説明できない事に気づきました。
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COG仙台キリスト教会の大内秀子牧師が礼拝をリードしてくださいました。使徒の働き16章で、パウロとシラスが迫害を受けた時に何をしたかに注目しました。はたして『賛美』ができるものでしょうか。囚人たちも聞き入ったとあります。普段からしているからこそ、特殊な状況下でも神に心を向け『賛美』が出てくるのでしょう。周りにも影響を与えています。 刈り取られた田んぼや校庭に散らばるドングリが秋を意識させます。『賛美の秋』も有りですね。牢の看守は全家族そろって神を信じたことを喜んだとあります。きっかけは『賛美』です。
創世記の著者はモーセですが、49章にはどんな意図があったのでしょうか。シュミット・ケンさんの問いかけに答えながら考えてみました。良いことだけではなく、厳しい言葉もありますが、ヤコブは子孫に家族の集まりを意識させたのでしょうか。『それぞれにふさわしい祝福を与えた』と表現されています。 日曜日、心も空気も澄んでいる秋は、誰かに感謝を伝えたくなります。今更ながら、神への礼拝の日があって良かったと思うのでした。
伝道者の書11章を読んでの第一印象は?との問いかけに、二者択一で考えていた頃を思い出します。『さばき』という言葉の為でしょうか。では、悪い事をした時だけでなく、与えられた物を楽しまなかった時のさばきを意識したならばどうでしょうか。 神が喜ばれるだろうか?と考えながら判断するならば、お互いに受け入れ合えるかしら。他者を押しのけるという事は無くなるかしら。
『喜び』とは単なる感情ではなく、何物にも変えがたいものを手にいれたという満足を表す心の状態なのですが、それには神から与えられた自分への制限を認めるのが前提のようです。 神の愛は保証されているとして、自分が神の基準から外れていて神の計画の全容を理解できないと認めることはできるでしょうか。 この夏、神学校の校庭ではスズメの学校がにぎやかでした。
いつのまにやら、田んぼの実りと共に散らばって行きました。(~_~;) |
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July 2022
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