主題: 神の家族の祈り;「敬虔の黙想と祈り」
核となるみことば:詩篇19:14
私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。わが岩わが贖い主、主よ。
神のみ前で神ご自身について考える、思い巡らし黙想することは祈り、神と直接対話する心備えとしてとても大切なことです。私たちはキリストの贖いの御業のゆえに聖なる尊厳の父なる神に「アバ父」と呼べるほどに身近に引き寄せられています。私たちはキリストのゆえにいつでも主権者である神の御前にはばかることなく立つことを妨げるものは何もありません。同時に、私たちが呼びかけることのできる神がどのようなお方であるのか、その存在についてより一層認識を深めることによって神の恵みの御業に対する理解も深まります。そういう意味で神ご自身について思い巡らすことはいつもそうしなければならないのではないかと思われます。この世でも、それなりの地位にある人と面会する時には、そのような方であるがゆえの礼儀作法(儀礼)なるものが必ずあります。それはその人に敬意を表することであり、そのことによって事をできる限り円滑に運ばせることになります。私たちの父なる神に対しても同様に払うべき敬意の度合いを一層深めたいものです。
詩篇作者は創造された自然、被造世界の内に啓示されている神ご自身の栄光を読み取っています(1~6節)。また直接啓示された聖書、主の教えや戒めの一つ一つを思い巡らしながら神ご自身の尊厳性に思いを寄せています(7~11節)。さらに翻って神の御前に自分自身を省み、聖なる神を知るがゆえに気づかせられる自分自身の罪深さを思い巡らし、神に向かっています(12~14節)。私たちもまず立ち止まって神の偉大さや神の恵み深さを思い、一方、神の偉大さを知るがゆえに気づく自分の罪や自分の存在の小ささをはっきりと認識するようにしましょう。そうでないと、その時々の心を悩ませていること、気がかりなことをただ神に向かってしゃべるだけでは、父なる神はそれを拒絶することはありませんが、むしろ神の名を汚し、神との交わりを狭めてしまうことになりかねません。私たちはそのようなことにならないように誠心誠意、知恵を尽くしたいと思います。多くの人たちがしているように、私も、まず聖書を読み神がそこから何を示しておられるかを考え、それを賛美に変えてから、必要に関する祈りを始めるのが良いということを体験から教えられています。それはクリスチャンとしての霊的成熟への着実な一歩を踏み重ねることになります。
私たちが神に向かって口を開く前にほんの少し、一呼吸でも神への敬虔さを思い巡らす、それだけでも、その後の神との関係の質が大きく変わっていきます。そういう意味で、神とはどういうお方であるかを思い起こし、みことばを学び返すことは決して時間の無駄にはなりません。むしろ祈りそのものがそうであるように、神を知るまたとない方法です。私たちも詩篇の作者に倣って、思い巡らしながら、浮かぶ神への讃美、気づかせられる自分自身の足りなさ、弱さ、罪深さを率直に神に語り、その上で自分の祈りを言葉にしてみましょう。